20180531

彦崎小学校何十周年記念の謎



昨年末帰省した際、兄から
「彦崎小学校がホォニャララ〜周年の
 アニバーサリー年。役をしているので寄付するように」
という相も変わらずの報告。
だが、新年度を迎えようとする現在。何の音沙汰もない。
そしてこの「ホォニャララ〜」が思い出せない。
彦崎小学校のオフィシャルHPにも「記念」の一文字もない。し。
彦崎小学校で検索してもその陰もなし、どうなっているのだろう?電話で聞けばいい話だが、それではおもしろくないので
少し振り返ってみよう。「彦崎小の歴史」によるところによれば

1875年(明治8)年3月に彦崎・植松両校を合併「彦崎存立小学校創立」
となると136年記念?アニバーサリー的には数字が中途半端。では
1907年(明治40)年灘崎小学校彦崎分校となる創立105周年?まさか。となると
1962(昭和37)年4月の灘崎小学校より独立灘崎町立彦崎小学校。
このときあの菱形彦印の校章、および校旗制定。これか?
50年記念だし、これだな。

明治初期の「彦崎存立」の存立時代。
明治40年に「灘崎小学校彦崎分校」の約50年を費やした分校時代。
創立から独立時代までに約1世紀を分校に身を捧げた紀元前。
独立以後40年は校地拡張、教室増築は著しく右上がりの活躍ぶり。
個人的には独立後三教室(音楽・準備室・理科室)増設後に入学。
在学中に高学年プレハブがたち、理科実験池ができ、なんといっても
プール新築のために運動場を現彦崎小学校に移設拡張したことだ、
当時は現在のように鉄筋の校舎も講堂もなく
只の茶色のだだっ広い校庭。こんな平地は彦崎始まって以来の面積だ。
この進行での最初の運動会も参加できたのは自慢でわくわくしたものだ。

我々に学年は一クラスの36名。全校でも200名いただろうか。
現在では少子化といえども合併もなしに
クラスは14クラス400弱の児童数は当時の倍だ。


とにかく彦崎小学校50周年おめでとうございます。
ってほぼ同い年。

120
2011-03-29 
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その兄もこの2月に逝ってしまった。
7年前に似合わないPTA副会長なんかしてたわけだ。
あまりにもの意外性に将来町議会議員でも立候補するのかと思った。
というか、気がいいので断りきれなかったのが本音だろう。

パチンコセブンの跡地にOKストアーが






いやちがった。マルナカでしたね。
県道にプリントされた車をナビゲートする白矢印。
思わず右折してみんな入ちゃうよ。
しかし、まるでウエハースサンドのように派手やかな姿が
秋葉山を後ろに従えて堂々たる姿。
ブルーにオレンジにグリーンにピンクを基調に・・・。
って全部じゃん。とにかく昨年彦崎での一大ニュースでしょう。
彦崎史上最大マルナカ拡大改装オープン。
過去を振り返れば(振り返ってばっかしだが)
彦崎初のスーパーが出来たのは
現在池田医院に出来た「農協ストア」。
当時の子供たちは豊富なお菓子の品揃えには度肝を抜かされたものだ。
ほどして狐﨑側に渡辺医院の場所にライバル店。
名前は忘れたが卵一パック100円よく行かされました。
そしてマルナカの前身OKストアー。そしてマルナカに変身。
という華麗な彦崎スーパー遍歴に歴史的な1ページ。

しかし、とにかく噂には聞いていたが、でかい。
特に稔橋側から入場した場合、道路沿いの建物側面が
ドォ〜ン!!と、
かなり威圧的。「いきなり壁かよ!」って感じだ。
それも「絵入りの壁」だ。少しでも賑やかな感じを醸し出しているのかい。
しかし、これも計算されているのかもしれない。
その「絵入り壁」を見ながら道路の白矢印通りに進むと
自動的にマルナカパーキングにイン。広い。広すぎ。
と感じるのもあの圧迫感のある「絵入り壁」との落差的錯覚か。
考えたなマルナカ。

店内にはいるとズド〜ンとこれまた広い。
入り口側になぜか衣類が横並び。
左角に酒コーナー。パン屋。総菜。後忘れたがかなり広い。
が。以外と品数が増えている感じがしない。
こんなに大きくなったのに「ピーナッツ豆腐」がないのだ。
「玉子豆腐」もそんなに種類がないし。
う〜んこまった。

とにかく彦崎マルナカは
彦崎史上最大のスーパーマーケットなのは間違いない。

そうそう3月31日まで
「ピリッと辛口 お好みソース 500g」が250円だ! 

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郊外の大型店舗。
瀬戸大橋も出来て、香川のスーパーが進出。
隣町の茶屋町には現在大型店舗ラッシュ。
巨大大型店舗街になってしまっている。
そのおこぼれを彦崎も少し頂いているのか。

駅長が彦崎駅いた頃のはなし。



彦崎駅。
岡山行きのホームをよく見ると真ん中あたりに
黒ずんだコンクリートが一部だけ白くなっている場所があるはずだ。
線路側から見てもハッキリとわかる。

ここは以前階段だったはず。
彦崎駅が有人だった頃、
現在のように向かいのホームに渡る陸橋はなく
このホームからその階段を下りて
直に線路の上をてくてく歩いて、
また向かいのホームを階段で上る。のだ。
その階段を使用しない時は
だれかれとホームに降りないように
鉄の蓋がされている。ガラガラと。
電車が着く数分前にその鉄の蓋は駅長によって
また、ガラガラと確か長い棒で開けられる。
そして左右を安全確認してお客様どうぞということになる。

実はこれがかなり楽しい。
まず、いままでホームだったところが階段になる訳だから
ちょっとした忍者屋敷的感覚。
そして、一番の醍醐味は線路の上を堂々と歩けることだ。
踏み切りでも歩けるじゃないか。ということだが
駅構内で歩けるなんてスゴイ!ということになる。
それにホームは頭の上だ。考えただけでも興奮しないか!
これを味わったモノは電車に乗る度の大イベントになるはず
当時の電車のトイレは直出しということもあり
嗅覚からくる臨場感もスゴイ。

少し当時の彦崎駅に思いを馳せてみよう。
円形の林を囲むように円形のロータリー。
正面に木造の駅舎。大きな入り口は開放。
中央に木製の椅子は背中合わせにあったろうか?
切符売り場は入って左。
小さな穴の開いたガラスに向かい
行き先を告げると
厚い切符が渡される。
電車が来る時間まで駅構内で待ち
駅長さんの合図まで待つ。
合図があれば切符売り場のすぐ横の入り口から構内へ
岡山行きはその踏切ををわたり
宇野行きはそのまま。

駅舎の宇野側は貨物扱い。にぎやかだ。
というのも現在の「灘崎老人憩いの家」あたりに
彦崎通運があり、駅の倉庫が幅をきかせていた。
人が4-5人は入れそうな大きなズタ袋には多分綿が入っているのだろう
横に開いた穴から白いものが見える。
本当は危険で立ち入り禁止なのだが
駅の倉庫は子供には遊び場だ。
荷物から荷物を渡り歩き、当然ジャンプ一番。
綿袋だと思えば当然のこと。
当時は空中バク転ばやり。
綿袋は空中バク転少年の格好の餌食だ。

そんなこんなで
日が沈む夕方などになると彦崎駅周辺は大忙しだ。
彦崎駅は1970年5月までこんな状況だったはずだ。

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2011-03-23 17:17
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やはり震災の影響なのか、少し記事の内容がセンチメンタル。
皆が元気になるのはまだまだ先の話。
そういえば購買力も低下し、景気はがた落ち。
仕事も暇だったなぁ〜。よく7年ももったものだ。

初代のラジオsonyスニック!新発売!!




現在(20110320)彦崎でも
単一電池が売っているは小池電気だけらしい。

1970年は何がなくとも単一電池。
単四電池、単五電池なんて存在していない。
ウルトラマシンにポータブルレコードプレーヤー
もちろん懐中電灯
単一ひとり勝ち時代だ。
まだ小池電気はなかったので、
電池購入は若林電気か、農協か。でラジオだ。
1971年に買ったスカイセンサー5800は2代目のラジオ。
それ以前はこのトランジスターラジオ「sonyスニック」。
といっても兄のお下がりだが。

とにかく1970年前後は偶然のラジオブーム。
AMラジオの深夜はオールナイトニッポンにセイヤング。
パックインミュージックもあったけど関西では「ヤングタウン」。
午前中には毎日放送の「ありがとう浜村純です!」と「ごめんやす馬場文夫です!」。
夕方近くには「こども電話相談室」。深夜番組前は「欽どこ」から「ザ・パンチパンチパンチ」。
まさにラジオ花盛りだ。

そんななかラジオ登録ができ、
ワンタッチでラジオ局を渡り歩ける、まるでカーラジオのように。
現在では登録ラジオが主流だが
当時は一局一局をダイヤルで微妙に合わせることがひとつのステータス。
大きな放送局と大きな放送局の間でかすかに聞こえてくるラジオ局を探すのだ。
そんな時代に生まれてきた「sonyスニック」。
ものたりないのだ。
というか君が登場する時代には早すぎたのだ。
9石高感度ポケッタブル2R-26
¥7,500円。しかし高い。 

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本家はSO-NETブログ。イッツアソニー。
最近、怪しいので少しずつこちらに移設している。
しかし、先は長い。本家は現在2000本目前の1920本あたり。
現在こちらは120あたり。気の遠い話です。

彦崎馬場・消防魂の碑




私は高校卒業と同時に上京したので
彦崎を守るための消防団に入ったことはない。
なのでこの「消防魂」の意味も子供の頃から知らない。その謎は碑の裏に貼られている鉄のプレートが答えだ。
「岡山県消防操法訓練大会連続10回出場し毎回入賞を記念してこの
碑を建立す。昭和38年12月 灘崎町消防団第8部」
とその当時の輝かしい出場メンバーの指名が刻み込まれている。
これはが高さ2メートルはあるだろう「消防魂」だ。

最近この周辺がにぎやかだ。
それものはずその消防魂の碑の裏に
「観音様」が引っ越してきたからだ。
そう、2年前にこの場所の対面にあった観音様激突破壊事故。
激突をした人もかわいそうなぐらいいいポイントに設置されていた。
その観音様がこの消防広場に引っ越してきたのだ。
昔はたしか畑だったような気がするが、
いまでは広い芝生の上にかなりの面積をとって設置されている。
そして不思議なのが観音様の向きだ。
本来なら道路側方向に観音するところが自然だが
なぜか以前と同じこの「消防魂」の碑側に、
いわゆる南東方向に観音しているのだ。たしか。

この観音も写真に納めたのだが不思議なことに消滅している。
あ〜これも大久保神社の呪いか。

まだまだ不思議なところがいっぱいの彦崎。
そして消防広場には彦崎随一の火の見櫓もあるのも必見。
彦崎に訪れた人は是非訪れてください。

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2011-03-15 19:21
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東北大震災の4日後。
まだまだ巷は混乱しているがコメントに垣間見える。
物不足。やはりこのパターンはかわりませんね。
日本人はやはり農耕民族なんでしょうね。
なので有り余る食料、お金を溜め込む傾向があることを
黒澤明監督「七人の侍」に描かれている。

フダバカルフォルウラ




まるでそこはカルフォルニア。
椰子の木があるだけでなんだか西海岸だ。
下に南天木が見えるはご愛敬。
そうここは札場・岡南の最南端。
当初(1970頃)は大石が闊歩した大庭園だ。
いや小庭園。芝生があり、大きな石が3-4つ。
ヒョウタンぽい池もあったものだ。
その小庭園時代も4-5年もあっただろうか?
工場を増築することで庭は埋められたわけだ。
その当時の名残がこのイーグルス風椰子の木。
当時の栄華が偲ばれる。のだ。
イーグルのホテルカルフォルニアの
アルバムが発売されたのが1976年なので
この椰子の木は7-8年先輩だ。

この庭のむかいには秋田犬「ゴン(〜1971年頃没)」の犬小屋。
当時の犬は番犬色が強く、かなりうるさい。ほえる。
静かな日曜日夕方ともなれば彦崎中、犬の鳴き声がどこらかしこだ。
いまだに、こちらの日曜の夕方にでも犬が鳴き始めると懐かしい感じがするものだ。
ゴンの食事は冷飯の中に魚の骨、そこにみそ汁がかかっている、
言わば残飯なわけだ。器はへこんだアルマイトの大鍋。
今思えば21世紀の犬より、犬的にはかなり幸せではなかったのではないか。と。
ゴンの住まいの環境は行動範囲を広くするために2-3メートルある鉄線をはり、
その鉄線に犬チェーンをつなげている。
のでほぼ縦5メートル横2メートルの行動範囲となる。
知らない人が近づけばその以外に広い行動範囲に驚愕するという仕掛けでもあり、
散歩いらずというずぼらオーナー仕様なのだ。

その犬小屋の上に鉄の野外階段があり、その先は物干し台。
今気がついたのだがゴンは下着泥棒の番犬でもあったのか?
しかし、我が家には男子家族で年頃の女の子はいない。
まさかハルさんの?まさか・・・・・いやいやしかし。

とにかく当時(1970年)にこの建物の右半分は存在しなくて
ホテルカルフォルニアは我が物顔だったはず。

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115
2011-03-08 
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あの日が近づいてくる。2011/0311。
これ以降いつもコメントを書いてくれていた「のんさん」が姿が見えなくなる。
元気でいつのだろうか?
この場所もいまでは草がボウボウだ。

激似「彦崎・明石山」。




県道22号線沿いのスーパーマルナカを越え
彦崎郵便局あたりから
灘崎の方へ向かってみると明石山が見え・・・。

!。!!。「おみやげ」?「寄木」?
道路の白線もかなり痛んでいるし、、なんか変・・・。
実はこの場所はお正月の1月2日には必ずテレビで全国中継される
箱根駅伝往路ゴールなのだ!!ウキッ!

http://goo.gl/maps/yd5a
数十年前から箱根駅伝の往路のゴールと
復路のスタートには必ず登場するこの「類似明石山」。
正月は東京にいながらにして彦崎を堪能できるのだ。
山登りのスペシャリスト東洋大の柏原選手のお陰で
ここ2-3年はホットコーナーになってしまった。
箱根のゴール地点。ここはまさに彦崎。


我が家(2名だが)はマラソン・駅伝ファンで
個人的にはランナーではなくてランナーの背後の
景色を見るのが趣味と言っていい。
因みに相方はプロ野球のバックネット裏人間模様観戦が趣味。
という変態家族ならではの発見。

とにかくこの「箱根彦崎・明石山」。
彦崎と箱根を比較対象すると
明石山は屏風山。
奥谷の竹藪群が鼡殺(しょさつ)。こわっ!
県道22号線のところは国道1号線。(東海道だから当然だよね)
左に倉敷川のところ芦ノ湖
彦崎港が遊覧船乗り場
千田鉄工所が箱根ホテル
明石踏切あたりが箱根の関所。

当然、箱根の方がメジャー級だが
山のラインは彦崎明石山の方がきれだね。



写真(メイン)はgooglestree箱根関所南踏切より屏風山を望む。 

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アーカイブは基本こちらでとった写真の記事のみだが
この手の内容は個人的に大好きなので記録に
当時「のんさんにもうけたらしい」。
しかし、後に神奈川葉山も彦崎だったことの発見。
実は日本中には至る所彦崎ではないかと疑心暗鬼。

「高取薬局は閉店か?」そして駅前空き地続出!





のんさんからの
ショッキングなニュースが飛び込む。

駅前に空き地発見!
そしてどうも「高取薬局は閉店か?」


どうもクスリ雑貨の量販店「zakzak」が
出来たのが致命的だったのだろうか?
彦崎唯一の薬局「高取薬局」が閉店したのか?
ここ数年帰省の際に見る「高取薬局」は
常に白いカーテンに閉ざされている。
ナナメ向の「藤原書店」と同じ状態だ。
そして周辺の空き地も目立つようになった。

40年前は彦崎のクスリ処
フィルムの現像も一手に引き受けていた「高取薬局」。

現在、彦崎はシルバー向けの病院が集合している。
なんといってもホームのぞみ・わかばを有する「池田医院」。
元スーパー跡地にできた「渡辺医院」。
川張にある老人保健施設「ゆめの里クリニック」が同グループである。
また大久保には特別養護老人ホーム「灘崎荘」がある。
1993年7月の開設。
定員80名待機者数220人といわれいる。
介護教員体制は2.3人に1人。
と施設は豊富だが決して老人天国ではない。

とにかく「高取薬局」は彦崎から無くなってしまったのだろうか。
またひとつ記憶が無くなってしまうのだろうか。


写真は2009年12月29日まだ在りし日の「高取薬局」。ひっそりとマンダムの看板がいいね。う〜んマンダム。
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写真は2009年12月29日。ほぼ10年前。
彦崎に老人施設がプラス3施設増加。
当時79歳だった母。現在88歳。
取り巻く環境は激変。リアルに老人介護は他人事でなくなる